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2016年10月15日土曜日

悪魔と戦う方法について

「悪魔と戦おうと思ってはいけません。悪魔と戦う方法は我慢することだけです。」

神父さんから教わったこの言葉にどれほど助けられたことだろうか。

このことを教わっていなければ私は洗礼までこぎつけなかっただろうし、ここ数年にわたって私を悩ませてきた問題についても耐えられなかっただろうと思う。

悪魔と戦う方法は我慢することだけです。そして教科書的な回答は聖書にあるように祈祷と齋(ものいみ)の実践です。

特別なことをするのではなく、敵のために祈るとか、隣人を愛せとか、 そういう基本的な訓練が有効です。祈祷と齋を自分のレベルにあわせて実践することで悪魔との戦いに練達していきます。

ときどき、悪魔との戦いに敗北し、つまり自由意志によって悪魔の誘惑に従うという選択をし続けて、悪魔の手先のようになった人と出会うことがあるでしょう。

そんな悪魔の手先のような人の近くにいると多かれ少なかれ危害を被るでしょう。

そうすると振りかかる火の粉を振り払う必要が出てきます。

しかし、このときにいくら相手が悪魔の手先みたいになっているからといって自分は悪魔と戦っているなどと思う必要はないし、思うべきではないです。

なぜなら、悪魔の作戦は強いところと弱いところを集中的に狙って、人間同士を分裂させて争わせることで、人間同士で戦っているのに、本人たちは悪魔と戦っているという錯覚を引き起こすことで悪魔の存在を忘れさせ、より深く罪を犯させ続けて取り返しのつかない状況に持って行くことだからです。

あくまでも戦っている相手は人間であるということを見失ってはいけないです。敵のために祈れ、隣人を愛せ、裁いてはいけない裁かれないためである、許せ、という教えは聖書的と言いましょうか、教科書的ですが悪魔との戦いにおいては有効な武器となるでしょう。

私は洗礼を受ける前の早い段階で悪魔との戦い方を教わっていたから洗礼を受けることができたし何度も信者をやめようと思ったけれど、首の皮一枚くらいの感覚でなんとか踏みとどまって、我慢して困難を過ぎ越すことができました。

人によっては「我慢」というより「忍耐」といったほうがよいのではないかと言われますが、私の肌感覚だと「忍耐」というより「我慢」、むしろ「やせ我慢」といった方がよいかもしれない。本当につらくてつらくて我慢できなくて、つらい。

また、ある神父さんには「忍耐できることを忍耐するのは忍耐とは言わないんです。忍耐できないことを忍耐するから忍耐というのです。我慢しないで思い切り怒ってしまえばその時はいいけれど後でものすごく後悔します」と教わりました。

まったくそのとおりだと思います。

経験の浅い信者や洗礼志願者は悪魔にとってみれば格好の攻撃対象に違いない。

悪魔というのは狡猾でずるがしこくて、そして可愛らしくておちゃめで、いつも身近にいて小さな嘘をついて小さな罪を重ねさせようと日々画策している。

私が教会の門を叩く気になったのも、原因は悪魔の存在について考えるようになったからです。

私は神を好きかと言われるとそれほどでもないのだが、悪魔が好きかと言われると大嫌いなのだ。

神よりも悪魔のほうが嫌いなのだ。

だから悪魔を喜ばせることはしたくない。それが私の心得です。

さて、最近Facebookを見ていたら悪魔とのたたかいについての投稿があったので気になっていた。

なにしろ私が洗礼を受けようと思った動機のひとつが「悪魔はいるようだが、悪魔は私を苦しめる存在だから、悪魔と戦う方法を知りたい」というものだったから「悪魔との戦い」は私にとっては信仰上のひとつのテーマになっていて、常に「これは悪魔の誘いだろうか?それとも天使の導きだろうか?」などと自問するわけで、人一倍悪魔に対して敏感になっていると思うのです。

だからFacebookの正教会コミュニティーでの悪魔との戦いに関する議題は大いに興味をそそられました。

経験の浅くない、ベテランの信者にしてみれば悪魔と戦うなんて不可能だと知っているから、経験の浅い信者に対して悪魔と戦っても勝てないと教えてくれる。よいことだと思う。

しかし、なかなか難しいと思うのは、初心者に「悪魔と戦う方法は我慢することだけです」と教えても「それはなにか違うのではないか?」と疑問を感じて首をかしげて、なにやら納得がいかない様子でいろいろ反論されてしまう。

私はどうも素直な性格らしいので、悪魔と戦う方法を教わった時、なんの疑問もなく「嗚呼そうかなるほどそのとおりだ」と受け入れることができたのだが、どうやら一般的には悪魔と戦うにはなにかしら方法があるはずだと考える傾向にあるらしい。

以前にも悪魔について人と会話すると、なかなか納得してもらえない経験があるので、どうやら初心者はなにか特別な方法があるはずだと期待してしまう傾向があるのかもしれない。などと思った。

悪魔の性質について教わったことを整理すると次のようになる。

悪魔は誘惑者である。人を誘惑して罪に陥れようと画策する。最終的には人間を神から離反させようと試みる。

悪魔は狡猾である。賢いのでこちらを騙すのが上手である。本当のような嘘をついて人間をあざむく。対策は「基本に忠実に」である。

悪魔は決して強いものではない。悪魔は人を病気にするのにも神の許しが必要で、人間に直接危害を与えることは不可能と考えて差し支えない。

悪魔は自分の存在を隠そうとする。

悪魔は人間に良い考えと思わせて頭の中に良いアイデアのイメージを起こさせる。しかし、そのアイデアは本人は良いアイデアと思っても実際には失敗するアイデアなので、実行すると失敗して後悔する。

実は心のどこかで悪いことだと気がついているかもしれない。しかし、なにかと理由を考えて自分を正当化して実行してしまう。すると頭の中のイメージとは違って、思い通りにならないので、怒ったり、悲観したり、自信をなくしたり、人間不信に陥ったり、ひどい場合は自殺を考えたりする。

 悪魔の作戦はおよそ次のようなものです。

 小さなものから始めて少しづつ大きくしていく。

強く健康な心身を保っていると悪魔はあまり寄り付かない。しかし弱い時、例えば子供、老人、病気の時、怪我をしたとき、なにか問題を抱えて困っているとき、なにかしら弱っているときに悪魔は近づいてくる。

近づいてきて何をするかというと小さなことから始める。

まず小さな罪を犯すように誘惑する。例えば忙しいし少し疲れているとき我慢しようと思えば我慢できる程度の空腹のときに「今日は齋(ものいみ)だけど少しくらいなら肉を食べても大丈夫だろう」と思わせて齋を破らせる。「今日は嫌いな人のことで心の中で悪口を思ってしまった。しかし実際に口に出したわけでもないのだから痛悔をサボってもこれくらいなら許してくれるだろう」などと思わせて通悔の機会を奪う。

実際のところ小さな罪なので神父によっては「それくらいならいちいち痛悔しなくてもいい」と言われるかもしれない。本当はよくないのかもしれないが例えば日本では齋のとき魚を食べてよいことになっているので、魚を食べてしまったことを痛悔したら痛悔しなくていいと言われる可能性はある。

そして次の段階。

小さな罪を犯してしまった時に「こんなことを痛悔したらまた痛悔しなくていいと言われるかもしれないし些細なことだから痛悔しなくてもいいだろう」という良いアイデアが思いつくようになる。本当は聞いて確認してみないとわからないことなのだけど、神父も忙しいし質問するのは抵抗を感じる。だから今回は痛悔するのはやめておこう。実際たいした問題ではない。

このとき経験の浅い洗礼志願者や受洗後まもない人などは、神父や代父母などの霊的な教師から離れて、自分の考えで決めるという段階に成長していると言える。

成長するのは良いことだけどまだ判断が甘い時期であるから誘惑に弱い。たとえば、どこかで耳にした「ギリシャでは痛悔と領聖はセットではなく別々に受けることができる」という情報などから判断して「なんだ領聖するときは必ず痛悔しなければいけないと思っていたけれど必ずしもそうではないのだな」と思うようになる。しかし日本はロシア系の教会なので領聖前に痛悔を受ける習慣になっているから本当は痛悔しなければならない。自分の所属している教会の習慣を尊重するという基本的な教えを忘れたり軽視したり、そもそも教わっていない場合など、ちょっと小さいとは言い切れない罪を平気で犯すようになってしまう。

ひとつひとつの罪は小さいのだけれど、とても小さいのだけれど、罪を重ねることで徐々に大きな罪を平気で、場合によっては無自覚に、犯すようになってしまう。基本ができていないのに応用に手を出して問題を徐々に大きくしていく。

徐々に大きくなっていくので当事者にとっても周りからみてもすぐには気が付かない。そして気がついた時にびっくりする。

このびっくりしたときの対応が大事。あわてて罪を隠そうとしたり焦って関係ない人にまで謝罪するなど過剰な悔い改めを試みたりせず「神に許すことのできない罪はない」という基本を思い出して普通に痛悔する。

経験の浅くない、長年の信者であっても、怒りなどの感情は強い誘惑を引き起こすので注意が必要。怒りは麻薬と同じで常に怒っていないと気がすまなくなってしまうという怒りの罪に陥る危険性がある。たとえばSNSで人のあら探しに執心してしまうという困った習慣が身についたりして毎回同じ痛悔をしなければならなくなって恥ずかしいと思ったりする。

食欲、色欲、物欲・金銭欲、怒り、思い煩い、栄光欲、心の落ち込み、傲慢といった基本的な欲求は経験の多い少ないに関係なく習慣的な罪に陥りやすいと言えるだろうから、祈祷と齋、希望を捨てない、罪を犯したら嫌がらないでその都度痛悔が必要になるだろうし、定期的に神父さんと近況報告的な会話をするなどして小さなことでも恥ずかしがらずに助言を求めるような習慣をつけることが大切だと思う。

しかし、それでも恥ずかしいから痛悔したくない。教会から遠ざかりたい。あるいは嫌いな人がいるから教会に近寄りたくない。自分は教会にふさわしくない、などと思うようになったりする。

思うだけならばよいのだけれど「こんなのは悪魔の誘惑ではない」などと考えて本当に教会から離れてしまったり距離を置くようになったりしたら要注意。

 常に悪魔の側に立って、悪魔の立場から考える。自分が悪魔だったらどうやったら自分を陥れることができるか、少し立ち止まって思念する。ただし、あまり考え過ぎないようにする。少しで良い。

なぜ少しで良いかというと、基本を守っていれば悪魔の誘いではないかと思う以前に教会の教えに照らし合わせるとやってはいけないことである場合が多い。
 
占いに軽く心を奪われていると自覚したら「おやこれはよくない教会の教えに従うなら占いは禁止だった」と考えて占いをやめてしまう。

最近教会に行ってないなと思ったら教会に行けばいい。

いろいろ行きたくない理由を考えて行かないという判断をするのではなく、教会法に照らし合わせれば三週間連続で領聖しなかったら破門なのですから、迷ってないで教会に行く。

しかし、三周連続で領聖しなかったからもう自分は破門されたと同じだから行くのをやめるというような、実際には破門されているわけでもないのに自分勝手に考えてしまうのも良くない。悪魔にとっては誘惑し放題な状態。

最初は小さな小さな細かい細かい取るに足らない罪から始めて、徐々に大きく、例えて言うならば髪の毛一本一本はとても小さいが集まると頭の髪のように真っ黒になってしまう。

人間は自由な意志が与えられています。その自由な意志を正しく用いれば神に近づくことができます。しかし、悪魔の誘惑に駆られて、自由な意志を用いて、誘惑に従うという選択をすると、罪を犯すことになる。小さな罪から徐々に大きな罪へと発展していき、最終的には神からの離反に陥る。

罪を意識しすぎることで喜びを奪われる状態に陥る危険もあります。

痛悔したら罪は許されるのですから明るい心になるはずです。

明るく軽やかな心は天国に近い。

反対に暗く重い心は地獄に近いです。

私も、できれば明るい心で歩みたいです。

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